スタッフ紹介

みょ(秋田 明愛みょうえ)

キャッチフレーズは無類の子好き」(つま談)

経歴

1988年 愛知県豊田市生まれ

2006年4月~2010年3月 京都大学教育学部に在籍

2010年4月~2015年3月 食品メーカーの営業職として勤務

2015年6月~2023年3月 小学校教員として勤務(常勤講師・正採用のどちらも経験)

  ↑この間に1年間夫婦で同時に育休を取ったりもしました。

2023年4月 子どもの学び場 ひまわり 開校

2024年5月 滋賀県フリースクール等連絡協議会 運営メンバー(会計)

 

みょのことをもうちょっと詳しく知りたいよーって方はこちら↓

少年時代

愛知県豊田市にあるとあるお寺の息子として生まれる。

3人兄弟の末っ子であったため、両親から愛されて大切に育てられる。

…と思いきや、近年母からは兄と名前を間違えられることが頻発したり、みょの子ども時代の話を兄のことと混同したりと、兄の方が大切にされていたことを知る。

小学生の頃は学校の勉強はできたが、神童とは言われてないとか。

そして、スポーツが全くできなかったため、女子からモテることはなかった。

サッカー部に所属していたが、12人しかいないチームの中で、12番目の選手として活躍。サポーターと同じ位置である。

中高時代

兄2人が中学受験をしていたため、自分も受験をして、私立の中高一貫の進学校へ通うこととなる。

漫画「SLAM DUNK」の影響を受け、中学校ではバスケ部に入るが、ここでも相変わらずベンチウォーマーとして大活躍。中高はバスケ部専属応援団長という新しい役職も引き受ける。(試合には出れませんが、声が大きいことが取り柄でしたので)

勉強の方では、小学校時代は無双状態であったが、中学校では真ん中ぐらいの順位で、こちらも鳴かず飛ばず。

このときの勉強は大学受験には役に立ったが、日常生活からはどんどん乖離していったために、「なんでこんな勉強しなきゃいけないんだろ」という思いを強く持ちました。

これが教育者になる原点で、「自分が教師になって、もっと面白い授業をしてやる!!」と意気込んで、教育学部を目指すことになりました。

大学時代

ずっとE判定だったにも関わらず、奇跡的に第一希望の京都大学教育学部に合格。

京都で夢のキャンパスライフを送れるとワクワクしていたが、持ち前の人見知り力により、友人関係をうまく築けずに早々に挫折。

バスケを通じて友だちを作ろうとして、懲りもせずバスケ部に入り、やはりベンチを温めることに。(でも4回生のときは副キャプテンでしたよ!!)

4回生の頃に部活がひと段落したこともあり、学部の中で再度友だちづくりを頑張ってみようと多い、学祭へ参加。

それまでは組織の末端として参加しようとしていたが、うまくコミットできなかったため、思い切って組織の運営側に立候補。

これが功を奏し、たくさんの友だちを作ることができ、めちゃくちゃ楽しい思い出作りができました。

この時の経験から「みんなが自分の力を発揮して、お互いを認め合える世界にしたいなー!」という思いをもち、教育によってそれを叶えたいと考えるようになる。

サラリーマン時代

「教員は世間知らずだ」と言われるのが悔しくて、「それなら一度社会に出てやる!」と思い、サラリーマンになることを選択。

CMが素敵、というなんとも浅はかな理由で選んだ企業へ入社。(でも食品メーカーを選んだのは世の中に本当に必要な仕事だと思ったからです)

この会社は全国転勤があったので、愛媛県松山市という縁もゆかりもない場所へお引越し。

タフそうなので地方に行かされた、という説が濃厚なのですが、単に人と仲良くなるのが苦手だっただけです…。

気候も人も温かい場所でしたが、人口減少が激しい場所でしたので、食品メーカーとしては売上が厳しいエリアでした。前年と同じことをしていたら売上は落ちる一方です。

「自分で考えて行動しなければいけない。」と思い、商品が売れるように様々な企画を立案しました。

この経験から、社会人として活躍する上で必要な力はなんですか?と聞かれたら、これを答えるようにしています。

教員時代

サラリーマンとして働き始めて5年が経ち、脂が乗ってくるころだとは思うのですが、やはり当初からの夢であった教育に携わりたい気持ちを大切にして、退社。

京都に戻って常勤講師から小学校教員のキャリアをスタートすることになりました。

ちなみになぜ”小学校”を選んだか。「力の強い中高生が荒れたら怖い…」とかいう後ろ向きな理由もありますが、それだけではありません。

小学校は初めて学校という場所に出会って、学習がスタートする場です。「ここで学ぶことを好きになったらずっと学び続ける子になってくれるのでは!!」という思いがあったからです。

そんな希望を持って初めて担任したクラスは3年生でしたが・・・超・学級崩壊!!

授業中に7人ぐらい立ち歩いてたり、子どもにハサミを振り回されたりと、もう散々。。。

同僚の先生の力を借りまくったり、授業改善をしたりして、なんとか1年を乗り切る。

でも、子どもたちは純粋にやりたいことはやりたい!やりたくないことはやりたくない!と、自分の意思を持ってはっきりと表現していました。

死ぬほど大変な1年でしたが、先生の言うことを従順に聞く子どもたちより良かったかもしれません。

次の年からは1人で特別支援学級を担任。

何を教えなければいけないという指針がなく、学習計画から教材づくりまで、子どもの実態を見て自分で考えなければいけません。

でも自分の工夫次第で子どもの反応や成長が変わるのが、途中から楽しくなってきました!

このあたりの数年の経験が、教師としての自分の教育観を作り上げたように思います。

その後、自治体に正式に採用されて普通学級を担任。今思えばここら辺が転機だったかなーと思います。

たくさんの子どもたちに囲まれたり、自分なりにクラスを運営していくのは楽しかったです。でも、普通学級の担任になることで、こうさせなきゃいけない、ということが増えたり、教育委員会や管理職の影響を受けることも強くなりました。

ここで気づいたのは、自分のやりたいこと=目の前の子どもたちと一緒に試行錯誤しながら楽しく学べる毎日を過ごすこと

決められたカリキュラムをこなすことではないし、大人の価値観や社会のルールを押し付けることではない。子どもたちは社会を変え得る力を持っているし、子どもたちの人生を決めるのは子どもたち自身なのだから。

学校が変わったらまた状況も変わるだろうか?と思い、その後異動して2校を経験。

でも大小はあるが、どの学校に行っても組織の中にいる以上はその組織のルールに従わなければいけないので、真に自分のやりたいことは追求できないということを理解。

この頃、結婚して子どもができたことは本当に心の支えになりました。心が苦しくなったこともあり、子どもが生まれたタイミングで1年間育休を取ったりもしました。

現在

そんなこんなで、自分らしく生きる、自分の教育を追求する、ということを実現する方法を考えていました。

そんなときに「おうちフリースクール」という実践をしている方に出会い、「自宅で学校を作るという手もあるのか!!」と感銘を受ける。

ということで、小学校教員を退職し、2023年4月に子どもの学び場ひまわりを開校するに至る。

自分の学校を作りたい、という思いから始まっているので、不登校については不勉強です。これから人と出会いながら私自身学んでいきます。

 

つま

現役小学校教員。仕事が休みの土日祝限定で登場するボランティアスタッフ。特技は裁縫、絵を描くこと、文章を書くことなど、夫が苦手とすること全般。反対に、整理整頓、お出かけの段取りなど、夫が得意なことは苦手。

 

ちゃんまん

ひまわりのマスコットガール。3歳となり、イヤイヤ期は少し落ち着いたものの、まだまだ健在。最近は「おさるのジョージ」を見たり、お店屋さんごっこをするのがブーム。ニックネームの由来は赤ちゃんマンからきている。